特集にあたって

医療法人社団翠会成増厚生病院 榊 明彦

 25年くらい前の精神科病棟。雨続きの蒸し暑い日の午後だった。背中から怒声が飛んできた。「コノヤロー」「ナニオー」デイルームでにらみあう2人。2人とも筋肉隆々の大男。に加えて一方は剣道,また一方は柔道の経験者。宮本武蔵か姿三四郎か。両者の双眸からは火花が散っている。これはえらいことになった。「ストップ!」。私は声を張り上げる。2人の元へと走り火花の間を割って入った。とその数瞬,「ゴン」と「ガン」の衝撃。私の目からも別の意味で火花が散った。武蔵からは顎を,三四郎からは後頭部を殴られたのだ。これが最初で最後の(最後であってほしい)患者さんから受けた鉄拳である。
 昔は時々あったこのような場面も,いまはずいぶんと平和になった。きっと,生活空間の拡がりや開放的な処遇とともに患者さんたちはほどなく穏やかになり,看護師の言葉も刺々しさが和らいだからかも知れない。だが,まったくなくなったわけではない。強制入院への抵抗やコミュニケーション上のズレで口論となってしまうことはある。また時に,患者さんは症状のつらさから爆発することもある。彼らは正直な気持ちを表現しているだけなのに,また看護師たちも早く回復してほしいと純粋に願っているだけなのに,なぜ互いの気持ちに齟齬が生じてしまうのだろうか。今回は,「暴力と出会わない環境をつくる」というテーマだ。いま思うと,あのときの2人の大男は「ここから早く出してくれ」という,深層に潜む心の声を絞り出していただけなのかも知れない。